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学芸員コラムColumn

2017年9月5日展覧会#31 国宝《土佐日記》に寄せて

 『土佐日記』は、紀貫之が承平4年(934)に土佐守の任を終えて任地を出発し、京都へ帰着するまでの55日間の旅を記した日記で、本作はこの『土佐日記』を藤原定家が文暦2年(1235)に書写したものです。当時、京都蓮華王院(本堂が三十三間堂)の宝蔵には貫之の自筆本『土佐日記』が伝わっており、それをもとに定家が手写しました。定家による奥書には、思いもかけず紀貫之の自筆本に接し、健康状態は良くなく視力も衰えているが、感興にたえず昨日今日の2日間で書写したことが記されており、あわせて貫之自筆本の体裁・状態や、『土佐日記』成立の背景となった貫之の略伝が記されています。
 本作には、定家が貫之の筆跡を模して『土佐日記』の末尾を筆写した箇所があり、それに続いて“其手跡の躰を知らしめんが為に、形の如くこれを写し留むるなり。謀詐の輩は他の手跡を以て多く其筆と称す。奇怪と謂ひつべし。”と記しています。定家が臨模したのは、貫之が愛児を喪った悲哀と愁歎をつづった部分であることを考えると、筆跡を模すにも、筆者と悲哀(パトス)を共にする覚悟が必要だとの定家の哲学を、この言明からうかがうことができます。定家はさらに筆跡は心と一如であり、筆者の心境に到達すれば何が真跡かは自ずと明白となることを言外に、贋作の横行を批判してもいるようです。
 このように、体裁よりも対象への深奥な洞察としての心を至上とする「有心体」の美学が、本作に臨んだ定家の根本姿勢だったと考えると、冒頭の「男もすなる日記といふ」を「をとこもすといふ日記」と改変した深意も理解できるような気がします。(村瀬博春)

画像詳細:国宝《土佐日記》藤原定家筆、前田育徳会蔵

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