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学芸員コラムColumn

2018年7月10日展覧会#37 宗達から若冲へ

はじめに
 俵屋宗達筆《風神雷神図》(国宝・建仁寺蔵)の後世への影響については、たとえば同じ2曲1双屏風の画面形式による尾形光琳の同名作(重文・東京国立博物館蔵)や、《紅白梅図》(国宝・MOA美術館蔵)などの歴史的名作が描かれる原動力となったと考えられています。しかし、その射程に伊藤若冲が最晩年に描いた《象と鯨図》(MIHO MUSEUM蔵)が位置付けられるとの指摘は、これまでなされていなかったのではないでしょうか。
 そこで本論では、宗達あっての光琳、光琳あっての宗達、そして宗達・光琳あっての若冲という三者の思想的紐帯を読み解いてみたいと思います。

伊藤若冲《象と鯨図》MIHO MUSEUM蔵

1 宗達の深意
 最初に宗達の《風神雷神図》を再認識してみましょう。論者はこれまでこの作品が示す構図・彩色や形象の転用における特異性を総合的に解釈して、風神雷神は文殊菩薩の座としての青獅子と普賢菩薩の座としての白象を暗示し、中央に大きな金地の空間をとる構図は「毘盧遮那三尊像」の見立てとして描かれたことによること。さらに二曲一双の画面形式により中尊が切断されることは、『臨済録』「示衆」で説かれる「仏に会えば仏を殺し」の実践であり、その背景には1630年以降、宗達に深い影響を与えた烏丸光廣が臨済禅に深く帰依したことと、千利休の養嗣子・少庵を茶会に招くほどの茶人であった宗達にとって、利休の遺偈にある「祖仏共ニ殺ス」の一節が特別な意義を持っていたことが挙げられるとの論を展開してきました(「俵屋宗達と尾形光琳の思想的紐帯 : 『風神雷神図』と『紅白梅図』をめぐって」『美学』 54 (2003) 3 号所収https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/54/3/54_KJ00004585200/_pdf/-char/jaほか)。

2 光琳の深意
 そして連歌を深く嗜んだ尾形光琳は、宗達の《風神雷神図》に絵画的な付合を行うことを晩年の画業の目標として、《風神雷神図》と《紅白梅図》を描いたと考えられること(前掲書)。その際に、光琳は《風神雷神図》で黒々と雲を描いて『法華経』「観世音菩薩普門品 第二十五」が説く、「雷のような威儀をもって人々を戒め、大空一面に覆う雲のように人々の煩悩の炎を消し去る雨を降り注ぐ観世音菩薩の大悲心」を暗示したこと。さらにこの大悲心によって宗達は、特異性を打ち出して観者に知性を総動員する絵解きを促し、小さな悟りとして日常的な意識からの解脱を図る目的で《風神雷神図》を描いたことへの、理解の道筋としたと考えられます(拙稿「『俵屋宗達と琳派』への新たな視点―考えることの復権」石川県立美術館「俵屋宗達と琳派」展図録2013年 所収参照)。
 装飾性や趣向性を駆使し、「悟りへの乗り物」として絵画を描く宗達や光琳の姿勢は、『法華経』「方便品二」が説く、「子供が戯れに、小枝及び筆、あるいは指の爪で仏を描いたとしても、この様な諸々の人達は徐々に徳を積み、慈悲の心を持ち、数え切れない人々を苦から脱し、悟りへと導く。」に立脚したものと考えることができます。そして共に能楽に傾倒した彼らが、深遠な内容を湛えながらも多くの人々に愛好される表現を心がけたのは、芸能の目的を諸人の幸福増進、延命とした世阿弥の「衆人愛敬」を踏襲したものでしょう。

3 若冲の深意
 したがって臨済宗や黄檗宗に深く帰依した若冲の画業に認められる「琳派的特質」も、決して表面的な表現の模倣にとどまるものではなかったと考えられます。たとえば、若冲は生涯にわたって同じ姿態の鶏を何度も描いていますが、その姿勢は『景徳伝灯録』にある「鶏は寒うして樹に上り、鴨は寒うして水に下る」から解釈することができます。この禅語は、一つの事柄が受ける側の本性、資質によって異なる作用をもたらすことを説いたものですが、人類の文化史の中で真理や復活を象徴する鶏を若冲が終生描いたのは、自己の世界認識がどのように深化しているかを絶えず検証する求道者としての生き方の、端的な現れだったと考えられます。
 ここで《象と鯨図》に注目してみましょう。6曲1双屏風の両端にモティーフを寄せ、中央に大きな空間を取る構図は、画面形式は異なりますが、宗達の《風神雷神図》を連想させます。若冲の宗達への接近は、鯨に見られる「たらしこみ」の手法や、《風神雷神図》の深意を継承したことを表明するために、象の上部に獅子を象徴する牡丹を描いていることから確認することができます。そうすると、やはり中央の空間には仏が暗示されていると考えたくなります。そこで象と鯨そして仏の取り合わせには、たとえば京都の真如堂に伝来する《涅槃図》(1709年)のような、博物学的な関心の高まりを受けた若冲と同年代の『涅槃図』の影響が考えられます。すなわち宗達の《風神雷神図》究極の深意である「殺仏」に、『涅槃図』における「死せる仏」を合わせて見性成仏に導く、若冲の付合の妙がここで明らかになります。
 さらに《象と鯨図》の鯨の背鰭に注目すると、若冲はあえて当時の博物学的な「写実性」を無視して、「龍魚」につながる大魚として鯨を描いたことがわかります。そして象と獅子の見立てにより、観世音菩薩の慈悲を暗示した宗達と光琳の深意を受けて、平安時代の『紺紙金泥経』(『法華経』)の見返しに風神、雷神と共に慈悲の雨を降らせる龍が描かれていた事実に立脚して、若冲は龍魚のイメージを投影した鯨を象(と獅子)の相方としたと結論付けることができます。
 またそこには、象と鯨(大魚)が、それぞれ福徳をもたらす吉祥図として描かれてきた伝統も意識されていたことでしょう。したがって、《象と鯨図》も、財運興隆から涅槃寂静まで観者の様々なアプローチに的確に応えられる「衆人愛敬」の絶妙な成果だったことが確認されます。このように、若冲は宗達と光琳の付合を念頭に置き、仏教的深化の系譜に自らを位置付けて画業に勤しみました。(村瀬博春)※630日の「土曜講座」の内容をまとめたものです。

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