岸浪柳渓キシナミリュウケイ

仙台藩士の医師・岸浪広盟の三男として、江戸に生まれる。幼名駒三郎、後に東明、静司と名乗る。4歳の時、風疹と麻疹のため、聴力を失う。慶応元年父に従い仙台へ赴き、藩の絵所、東東莱に入門し絵を学ぶ。明治3年大槻磐渓の紹介で、江戸の画家福島柳圃に入門する。5年柳圃の紹介で、足利の画家田崎草雲に入門、住み込みで絵の修行に専念する。20代半ばから、師福島柳圃と大槻磐渓の一字をもらい、「柳渓」と号する。14年第2回内国勧業博覧会に出品。15年竜池会、第1回内国絵画共進会に出品。24年金沢の姉宮村貞夫夫妻を訪ね、二男を姉に預けながら金沢で画業に専念する。28年金沢の松島千年と結婚。29年全国絵画共進会に出品。30年代から北陸絵画共進会の若手作家の指導にあたる。以後全国絵画共進会や日本美術協会展、日本画会に出品を続ける。34年宮内省より「四季耕作図」制作の内命を受け、東京に移転する。大正5年帝室技芸員に推挙されたが、耳の煩いを理由に辞退する。昭和10年新宿の自宅で死去。