月岡耕漁ツキオカコウギョ

日本橋に生まれる。母方の姓である坂巻氏を名乗るが、母が月岡芳年と再婚したため、師匠でもある芳年の没後明治42年頃に月岡姓を継ぐ。芳年の下では、年久と号していたが、芳年の没後尾形月耕に師事し、耕漁の号を得る。その傍ら、松本楓湖にも学んで、湖畔の号もある。耕漁は「書画骨董雑」(大正元年10月)に「能楽を題材とせる絵画」と題する文章を載せており、「能楽絵は能の決まりを守らなければならないが、細部にあまりこだわるべきではなく、写生一点張りではいけない。自分が能画を描くのも能のもつ典雅な趣味に強く惹かれるからだ」という。  肉筆の花鳥人物を得意としたが、とりわけ「能楽」に関わった仕事を多く残している。『能楽図絵』『能楽百番』『能楽大鑑』などのシリーズがあり。