渓斎英泉ケイサイエイセン

江戸市中で武士の子として生まれた。幼いころ、狩野白桂斎に画技を学ぶ。16歳頃に水野壱岐守の江戸屋敷に武士として仕官するが、職を追われる。一時期、千代田才一を名乗って狂言作者になろうとするが、挫折。その後、葛飾北斎に私淑して、その画法を独学したとされる。結局、菊川英山の門人として浮世絵師になる。天保の改革の後は、一筆庵可候という名で戯作を主とする文筆業に専念した本名は池田義信。