二代歌川広重ウタガワヒロシゲ02

広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を宣重という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。画号は、重宣・一幽斎・一立斎・立斎・喜斎・立祥。